明治28年4月20日佐賀市神野町464番地に生まれる。
誕生後80日目に母他界、7才の折りに父が病に倒れた為西有田大山村の平瀬山竜泉寺に引きとられる。高等小学校、中学校に進み、さらに宗立真言宗京都大学で学び、大正10年3月卒業。その後本山布教師として全国を巡り、乞われて大正13年6月長崎県庁に民力涵養事務で入庁。昭和21年2月長崎県書記官高等官3等に就任、その間方面委員制度の導入や県立開成学園長、西彼杵群大瀬戸町長職務管掌などを努める。戦後の一大混迷時期の昭和21年5月、恩賜財団同胞援護会長崎県支部常務理事、事務局長(後改組、恩賜財団長崎県同胞援護会副会長、常務理事、事務局長)に転出し、戦災者、原爆被災者、引揚者といった方々を対象とした政府の行う援護事業の補完協力を使命とする仕事に携わる。県内に17カ所の洋裁和裁、竹細工、ワラ工品、下駄、畳、むしろ等の製造をする共同作業所を開設し、生活困窮者の生活の援助の一助にとし、引揚者の方々の為に生活必需品の供給、一時無料宿泊所の開設。養護者のない児童を養護育成する「大村子供の家」を開設。昭和23年、児童福祉法公布。ただちに平和保育園、藤原保育園、双葉保育園、島原保育園、菫ヶ岡保育園、佐世保乳児院等々を開設し、児童福祉にとりくみ、原爆被災者の為に白鳩浴場並びに、11カ所の生活相談所開設。叉、傷痍軍人等の生活再建に泉友同仁会を小浜町に結成、また長崎義肢製作所の援助等々を行う。
恩賜財団東京本部解散後、漸次長崎県支部も解散に向かうが、なお児童福祉事業や一部共同作業所は閉鎖するにはいかず、それらの施設は漸次社会福祉法人化を進めて独立して今日に至る。最初に手掛けた児童福祉である「大村子供の家」の施設長を昭和30年より兼務していた為、一番最後の昭和42年10月に社会福祉法人化して理事長に就任し現在に至る。
さらに、県庁より恩賜財団同胞援護会長崎県支部に転出してからの昭和23年6月15日、県母子保護連盟を、昭和24年6月15日、県未亡人会である一路会を結成。昭和25年3月30日、県身体障害者福祉協会を全国に先駆けて結成、会長職を昭和45年までの20年間務める。
「大村子供の家」の運営については、中尾エイ先生とのコンビで子供達を育て措置費で賄えない事柄には、自身のお金を持ちだしてまで尽くし、子供を説喩する時は、「自分もここにいる皆んなと同じ境遇で育った、そして立派になったのだぞ、皆んなも負けるな」と自分の子供の頃の話をし、親の愛情を知らずに育った自分の淋しさと、成長して孝養の出来なかった親に対する自分の愛情をそのまま肉親に対するごとく、援助を必要とする人達に向けた。
表彰関係では、調停委員の功により最高裁判所長官表彰、同じく調停委員の功労により藍綬褒賞を受ける。社会福祉事業関係では、仕事一筋の六十余年の間、県庁在庁の昭和21年に従五位の叙位を受けた後、民間に転出してからは、昭和54年、84年の折、長崎新聞文化賞を受けたのみで、自身は、表彰等必要ないと唯々無欲に社会福祉事業を天職として打ち込まれた。
昭和61年11月1日、享年92才にて永眠する。 |